歴史を考えながらクロアチア周遊ツアー、観光スポットの見方ポイント

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初めましてMASAと申します。添乗員がお届けするブログ【MASA-TABI|海外旅行出発前の参考に】です。

この記事では、クロアチア (+スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ) 各街でのツアー観光パターン、歴史を考えながらの観光、フリータイムには何をするかといった話題を取り上げます。

ツアーの予習・復習用に!ガイディング的な要素(ネタバレ)も含んでいるため、現地での案内を楽しみにされている方は、読むのを控えられた方がよいかもしれません。

ですが逆に、初めから概要をわかっていけば、現地での説明を理解しやすい、また写真撮影に専念できるというのもあるでしょうか。

大まかな歴史を知っておく

ベースとして、最低限の歴史を頭に入れておいた方が、観光でより深く理解できる場面も多いと思いますので、少しだけお話ししておきたいと思います。

ユーゴスラビアとは

このクロアチアを含む旧ユーゴスラビアには、民族だけでも5つ、そして宗教はカトリック・セルビア正教・イスラム教の3つがあり、それらが無理矢理1つの国にまとまっていました。

まず1918年に成立した、セルビアを主体としたセルビア・クロアチア・スロベニア王国が基となり、1929年ユーゴスラビア王国となります。

1945年から共和制の第2のユーゴとなり、チトー大統領の手腕によって上手くまとめられていましたが、1980年に亡くなると各国の不満が爆発 (初めからクロアチア・スロベニア側とセルビアは仲が悪かった)。

1991年から分離独立の紛争が起き、スロベニアはわずか10日間で終了しましたが、クロアチアは1995年まで長引きました (国内にセルビア人を多く内包していたため)。

ボスニア・ヘルツェゴビナの独立紛争は1992-1995年に、クロアチア人・セルビア人・そしてイスラム系ボシュニャク人が三方で戦いを繰り広げることに。

紛争終結後は、セルビアとモンテネグロはそのままユーゴスラビアとして存続し、2003年にセルビア・モンテネグロに改称。2006年にはセルビアとモンテネグロ国の2力国に分離し、これをもってユーゴスラビアは消滅。

旧ユーゴスラビア連邦の構成共和国であったスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアは現在それぞれが単一国家として存続しています。

その他にも

歴史を知っておくとよいというのは、観光中のいろいろな箇所に出てきます。

例えばクロアチアは、内陸地方はかつてオーストリア・ハンガリーの支配を受けた一方、海岸線沿いはベネチア共和国による支配と、歴史が異なるので、建物の雰囲気も異なります。

内陸国のボスニア・ヘルツェゴビナは、オスマントルコの支配だったのでトルコ風と、また全然感じが違いますし。

他には、クロアチア人はスラブ系民族なのに、なぜ宗教はカトリックなのか?とか、

ロシアで使われているキリル文字の元であるグラゴール文字は、クロアチア典礼で使われていたのに、禁止になった理由は?などの話も出てきます。

過去の政治的な歴史が関係しているためであり、こういったことも知った上で見ていくと、より深く観光ができそうです。詳しくは、現地でのガイディングで。

オパティヤ

歴史

このオパティヤは、オーストリア皇帝・貴族たちが次々に別荘を建てたリゾート地。これより南の地中海風の街並み (白い壁にオレンジ屋根) とは違って、黄色や淡いピンクのオーストリア風建物です。

アドリア海から奥まった位置のため、ベネチア共和国の海洋航路から外れて支配が及ばなかったためです。

ですので、以南のダルマチア海岸沿いの街がベネチアの支配下にあったのに対し、街の雰囲気がまったく異なります。

街観光は

イストラ半島の観光が含まれていれば、この街を拠点に往復。そうでなければ、通り道として1泊。

基本的に街観光はありませんが、この雰囲気はここから南にはないので、夕食前にでも海沿いを歩いておきたいです。

ドブロヴニクのホテルは、建物はリゾートっぽく・立地が海フロントでも、海沿い街を散策という感じはないので。

海沿いは「ルンゴマーレ」という遊歩道になっていて、散歩にはもってこい。海水浴もできるし、レストランのテラスも多く出ていて、夏はすごい賑わい。北のヴィラ・アンジョリーナの公園付近まで歩かれるとよいです。

イストラ半島

概要・歴史

8日間のツアーだと含まれていませんが、他の内陸地方や海沿いダルマチア地方とはまた違った雰囲気なので、余裕があれば含まれているコースをおすすめします。

イストラ半島の特徴は、地理上でも歴史上でもイタリアと非常に関係が深かったという点です (北西端に位置し、イタリアと国境を接する)。

まずローマ、ビザンチン帝国の支配の後、他のダルマチア地方よりも早くにヴェネチア共和国の領土に組み込まれ、

その後オーストリアがきて、第一次世界大戦後は、半島全体がイタリア王国に併合されました。

そのためイストラ半島は他のクロアチアの地域と異なり、1918年に成立したユーゴスラビア王国には入っていません。

第二次世界大戦後ユーゴスラビア連邦のクロアチア共和国に組み入れられ、1991年に独立した現在のクロアチアに至ります。

4つの主な街

主には次の4つの街があり、ツアーでは3つ訪れます (以前は上3つ、最近は下3つ)⇒

  • モトヴン・・・トリュフの産地として有名な「聖マルコの森」に囲まれ、天空に浮かぶ街。

  • ポレチュ・・・初期ビザンチンのモザイクが残っていることで有名なエウフラシウス聖堂を筆頭に、ローマ時代からの遺跡が残る、海に突き出た半島の街。

  • ロヴィニィ・・・リトル・ヴェニスと呼ばれ古くから要塞港として繁栄、丘上に聖エウフェミヤ教会が建つ。

  • プーラ・・・半島南端に位置、紀元1世紀に建てられた保存状態の良い円形闘技場で有名。

エウフラシウス聖堂

エウフラシウス聖堂の内陣モザイクポレチュの街にある、美しいモザイクが保存状態よく残っていることで有名な聖堂。

初代司教・聖マウロの家があった場所へ建てられ、現在の建物は6世紀建造。

聖エウフラシウスが築いたもので、アトリウム、洗礼堂、司教の邸宅、床のモザイク (キリストを表す魚を描いている) などの複合建築物。

祭壇上部分のモザイクは、ふんだんに金を用いて見かけも素晴らしいですが、

キリストを表す子羊の周りに「聖女」を描く (アーチの下部分) というテーマも、6世紀当時では考えられないような画期的なものだそうで、結果エウフラシウスは追放されてしまいます。

描かれた聖女のなかには、隣町ロヴィニにその名の聖堂があるエウフェミアもいますし、エウフラシウス自らの姿も左から2番目に描かれています。

ビザンチン世界から離脱したお蔭で、8世紀から始まる聖像破壊運動の影響を受けずに済んだというのも、幸いだったようです (1997年世界遺産)。

スプリット

街の概要

クロアチア第2の都市で、高層マンションも建ち並び、久々の都会という感じがします。観光はディオクレティアヌス宮殿のみ (南の湾沿い)。

通常は北の山から高速を降りてきますが、西のトロギールを観光したあとに向かう場合は、途中通るソリンが、ディオクレティアヌス故郷のサロナがあった場所です。

ディオクレティアヌス宮殿

宮殿の見方ポイント 

  • ディオクレティアヌス帝は、なぜ宮殿を故郷サロナではなく、スプリットに建てたのか?⇒ 当時はスプリットの方が静かな寒村だったから (隠居に静かな場所を選んだ)。

  • なぜ今、宮殿の中は1つの街のようになっているのか?⇒ 7世紀にスラブ人が侵入してきて、サロナの人たちが宮殿廃墟に逃げ込んで家を造っていったから。

  • なぜ皇帝に関するものが残っていないのか?⇒ ディオクレティアヌス帝は、ローマ時代にキリスト教の最後の迫害を行った皇帝だからです。

    次のコンスタンティヌス帝 (西ローマ帝国最後の皇帝) でキリスト教が公認となるので、形勢が逆転。相当恨みをかっていたので、ディオクレティアヌス帝のものはすべて破壊されてしまうのです。

    自らの霊廟も壊されて大聖堂に改築、代わりに殉教した聖ドムニウスの棺が安置される。

  • なぜ地下の何もない場所に有料入場するのか?⇒ 地下は昔の建物の構造を残している唯一の場所だからです (上階は家が建て込んでしまっている)。

その他 & 自由行動には 

  • 「クラッパ」を聴けることもあり・・・伝統的な男性アカペラ合唱で、無形文化遺産にも登録されている。

  • 金の門 (北門) 外に、グルグール司教の像・・・足を触ると幸運に!

  • 中心広場ペリスティルで、座ってお茶をするのも〇。

  • 広場から北の通りには、イチジク入りチョコの店やラベンダーグッズの店があります。

  • 鐘楼に上ると景色がよいです (階段が怖い?)

  • 大聖堂の入場は鐘楼とは別 (入口も・料金も)。

  • 有料トイレは北東。南門の外の海沿いプロムナードにある店でアイスを食べ、トイレを利用したりも〇。

スプリット、その他の見所

その他にも、夏は多くの船で賑わい、個人で行ってみたいところがたくさん⇒

  • ブラチ島・・・石灰岩の採掘として有名&「金の角」と呼ばれる風向きや潮位で形が変わるビーチがある。

  • フヴァール島・・・ラベンダーで有名

  • ブルーラグーンや、近辺のマリンスポットへ行く日帰りツアーというのがあるみたいで、港の観光案内所で申し込める (地元ホテル係の人も行くみたいで、よいと言ってました)。

ドブロヴニク

ドブロブニクの見方ポイント

最低限知っておきたい歴史・聖人など⇒

  • メインのプラツァ通りは昔は運河で、7世紀にスラブ人の攻撃から逃げてきたラテン人が、今の旧市街の南側に住みつきました。

    北側にはスラブ人が住み、互いが仲良くなった12世紀に埋め立てられて、通りになった。

  • 国際情勢に応じて宗主国を乗り換え、上納金を払うことで自由を得て、自分たちの政治には口を出させなかった⇒

    ドブロブニクのような小国が独立を保つことができたのは、このような巧みな外交によると言われます。

  • 年貢を払って対岸の土地を得て耕作、ストンでは塩田で塩を製造。

  • ベネチアと同じ海洋国家だった (ドブロブニク製の船は人気)。

  • ドブロヴニクの守護聖人は聖ヴラホで、ピレ門の上に像があり、この名の教会もある。

  • 門を入った壁には、1991年の紛争で砲弾を受けた被害状況の図 (全壊・屋根だけなど)。

旧市街観光

定番のツアー観光は 

西のピレ門外にて、バス乗降。門を抜けると、オノフリオの大噴水やフランシスコ修道院→

メインのプラツァ通りをつきあたりまで行くと、時計台やスポンザ宮殿、聖ヴラホ教会とローラントの像

さらに奥へ行くと旧港。手前右に曲がると旧総督邸→ 大聖堂 (祭壇にはティツィアーノの「聖母被昇天」)

プラツァ通りの北に並行した道には、レストランやいくつかの土産屋。南側通りにもお店や、セルビア教会も。

トイレは⇒ ①ピレ門入って右 (Kn7、お釣り可)、②旧港近く (Kn7、硬貨投入のみ)

ツアー自由時間にやること一例 

  • スルジ山ロープウェイと、城壁を歩く (城壁は必須!ツアーに入ってなければ)

  • 旧港からツアー貸切ボートでロクルム島を一周 (夏、10ユーロ位)

  • 山側の上道から階段を見下ろす風景は絵になります

  • 南東の辺りから城壁外に出られるテラスのBARあり (夏)

  • サンフランシスコ薬局 (ローズ・クリームやウォーターが人気、日曜は休)

ロヴリイェナツ要塞

ロヴリイェナツ要塞から旧市街を眺める旧市街全体のパノラマ写真を撮るポイントは⇒ ①スルジ山頂から見下ろす、②城壁上から眺める、③東遠方から撮影 (よくガイドブックの表紙を飾っている写真) と、

いろいろありますが、この写真は、西側にあるロヴリイェナツ要塞上から撮ったものです。

城壁入場券があればこの要塞も同日入場可なので、時間があればおすすめです。夏の時期は水が透き通っており、カヤックも行なわれてます。

モスタル (ボスニア・ヘルツェゴビナ)

モスタルの街

内陸とアドリア海を結ぶ、かつてのキャラバン・ルートに位置する街として、古くから交易で栄えてきました。

大通りより東のオールド・バザールは、かつて銅職人、なめし職人などが住んでいた職人街。

ネレトヴァ川沿いに軒の低いトルコ風の街並みが続き、金属細工を施したトルココーヒーのセットや、銅板細工などを売る店が並びます。

北には、オスマン・トルコの支配下で建てられた、モスクやミナレットが見えます。

ボスニア紛争

旧ユーゴからの分離独立を目指し、1992年から1995年まで続いた内戦。独立時に民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人、44%のボシュニャク人 (ムスリム) が対立。

主には対セルビアでしたが、時には石橋を挟んだクロアチア人とボシュニャク人も戦いました。戦争は1995年、NATO (北大西洋条約機構) の介入でようやく、人々に大きな傷跡を残して終結。

スタリ・モスト (古い橋)

この石橋はオスマン・トルコ時代の1566年に、腕利きのトルコ人の建築家による綿密な設計の下で完成。

水面から約20mの高さに架かる長さ29mの橋は、崖の上に造られた両岸の町を結び、この石橋の両岸にモスタルの町は発達しました。

人々は橋を越えて行き来し、誰もが橋向こうに親戚や友人がいて、数百年もの間、宗教を超えて仲良く暮らしてきたのです。

ところが内戦のあおりで1993年、橋は砲撃を受け破壊されました。異なる宗教を信ずる人々が数百年にわたって守ってきた人間の絆もまた、橋とともに砕かれます。

内戦当初は連携していたムスリム人とクロアチア人も、この橋の両岸に分かれて戦わなければならなくなりました。

紛争の終結後、川底から破壊された橋の欠片を引き上げ、足りない箇所は地元の石材を用い、ユネスコ支援を受けたトルコ企業が、創建当時の技法で2004年に橋を再建。

現在の橋の挟には「93年を忘れるな」と書かれた小さな石碑が置かれています。

ツアーでの観光は

川の西側、フランシスコ教会近くにバスの駐車場。歩いて東へ、大通りを渡るとイスラム人地区で、トルコ風のお店の雰囲気になってきます (丸石の石畳)。

途中、大通りを渡るあたりにも、砲弾で穴が開いたまま残っている建物を多く見かけます。

ちょっと北へ入ると、旧なめし革工場 (現博物館)、隣には専用モスク (下に川が流れていて臭い消し) など。

南へ下っていくと、ネレトヴァ川に流れ込む細い川があり、さらに古い橋が架かっていたり、

別の方向へさらに下ると、スタリ・モストのたもとまでも行くことができます (専門スタッフによる橋からの飛び込みをやっています、有料)。

石橋を渡ると、道は北へ進み、同じようなトルコ風の店が続き、このページトップ画像の景色が見られる辺りへ。解散して少々フリータイム。買い物やトルココーヒーを飲んだり。

ランチは、この辺りで食べることもあるし、バスで別場所に行くこともあります (たいていメニューは、チェバブチチでしょうか)。

あと、この街に夏行くのはおすすめしません。出入国の審査が混む上に、とても暑いからです!35℃とかの日も。

ブレッド (スロベニア)

概要

街の歴史は、1860年スイス人医師アーノルド・リクルが、オーストリア人の肥満解消のためサナトリウムを開いたのが本格的リゾート地のはじまり。西には、トリグラウ国立公園が広がります。

ブレッド湖

まずは手漕ぎボートに乗って、湖に浮かぶ小島 (ブレッド島) に渡ります。

この手漕ぎボートは代々受け継がれる伝統家業で、ブレッド湖はモーターボート禁止、なんとも静かなのがよいです。晴天だとオーストリアとの国境山が見えます→

島に着いたら、99段の階段を上ってマリア教会へ入場。ぶら下がっている紐を引っ張り、鐘を鳴らす。隣の塔にも上ることができます。

売店には、塩チョコレートの他に「ポティッツァ」という名物ケーキ菓子も売っています。

湖には他に、旧ユーゴをまとめていたチトー大統領の別荘 (現ホテル)や、レガッタ競技のコースなどがあります。

ブレッド城

コースには入っていないことが多く、遠くから100mの断崖上に建つ城を見ます (下車だけしても全く意味がないところで、各自払いで行きたいといっても、駐車料がかかるらしくてダメ)。

では入場すると何があるかというと

  • 天気がよければ、テラスからトリグラウ山が見えます (標高2864mでスロベニア最高峰、国のシンボルで国旗にも入っている) & 湖全体を見下ろせる

  • ドイツから伝わった16世紀の活版印刷の実演・販売所

  • 昔の民族衣装・鎧などの展示館

  • 礼拝堂
  • ワインケラー (自分で注いで蝋で封をする、土産ワインがある)

あとは土産屋やカフェでそんな広い見所ではなく、私的には遠望だけで十分な気もします。

フリータイムがあれば

ホテル「PARK」辺りですると思いますが、このホテルのカフェ (湖に面した建物) で名物スイーツ「クレムシュニタ」を食べてみるのもよいでしょう (半分生クリーム・半分カスタードのケーキですが、思ったほど甘くはない)。

土産屋が数軒並んでおり、塩や塩チョコ、ハチミツ、ワインなどが売っています (スロベニアの通貨はユーロ)。

あとは湖の景色もよいので散策や、ハートのオブジェ前で写真を撮ったり。

まとめ

いかがでしたでしょうか。ツアーで実際現地に行くと、こんな感じですというお話でした。

また、観光スポットもただ見て写真を撮るだけではなく、多少歴史も勉強して、重要ポイントを押さえて見ていくと、味わいも深くなっていくと思います。

これからのツアーのコース選びや、予習・復習にお役立ていただければ幸いです。

それではどうぞ、よい旅を!お気をつけていってらっしゃいませ!

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